「音楽現代」2007年7月号 第24回《武漢(その1)》
「子供たちの響き アジア」実行委員会 代表 小林武史
謝功成先生には以前、日本でお会いしたことがあった。
そのとき、「ぜひ武漢に来てください」と言われた。
私は当然、儀礼的な言葉として受け取っていたが、彼はそうではなかった。
謝先生は、中国全土でも名前を知られた武漢の音楽界を代表する会長である。
宴会は盛大なもので、次から次へと食べ切れないほどの料理が運ばれてきた。
今日これから練習する予定なので、皆が気を遣ってアルコール類は出なかった。
この席に、伴奏ピアニストの蘇試さんも同席したが、おとなしい人であった。
私は二十時間も列車にゆられて、睡眠不足で大変疲れていたが、途中で席を立つわけに
いかず、最後まで歓談した。
ホテルに帰り、楽器を持って会場に行った。
夜の九時になっていた。
ここでも、金さんがカセットテープを送っていなかったので大変なことになった。
ピアニストの蘇さんは全然テンポが分からなくて、何回やっても呑み込めない。
リサイタルのプログラムは一曲ではない。
特に團伊玖磨先生の曲は難しい。結局、夜の十二時まで練習したが、どうしようもなく、
團先生の「ファンタジア」は、ピアノ伴奏なしでヴァイオリンソロでやることにした。
後で團先生にご報告したとき、「無伴奏でやったらどんな感じになるのか聴いてみたいなあ・・・」と言われた。
謝先生はここでは一番偉いひとなのに、私たちの練習を最後まで側で聴いておられた。
七十歳を過ぎておられるのに・・・。
ここのホールは素晴らしく、八百くらいの客席があり、音響はとても良い。
その日は夜中の一時頃寝て、朝は六時半に起きてさらって、午前中にまたピアノ合わせ。
午後は一切面談謝絶にして昼寝、何が起こるか分からない夜のために備えた。
夜の演奏会。録音を採って湖北省全土に流す、といっていたのが気になったが、満員の
聴衆の前で冒険は終わった。
演奏前、謝先生は、ここの客は少しうるさいかも知れないが理解してほしい、と言われ
ていたが、北京並(即ちヨーロッパ並) の客であった。
本番、私は覚悟を決めて弾いた。
案の定、ピアノは何処かへ行ってしまった(合わなくなって、頭の中が真っ白になって弾けなくなること)。
蘇さんの奥さんも、必死で譜めくりをしていた。
それでも客席からは、中国では珍しくブラボーの声が連発され、大成功だと言われた。
ピアニストの蘇さんに、「良かったよ、謝謝」と言ったら涙ぐんでいた。
奥さんも喜んで泣いていた。
演奏会後の宴会では酒が出た。
土地の強い酒も飲んで、大変ご馳走になった。ここでも蛇が出た。銀花蛇という種類だ。
北京の松花蛇よりは味が落ちた。北京で食べた松花蛇は猛毒があるといっていた。
毒のある蛇のほうがうまいのだろうか。
翌日は講演とレッスンをした。通訳の金さん、ここでも大チョンボ。
私は笑いを堪えるのに苦労した。
狼の話をしたら、金さんは王様と神様と訳したそうで、それはここの学長
の童忠良先生が私に通訳してくれて分かったことである。
童先生は、ドイツのライプツィッヒに留学していたことがあり、ドイツ語が堪能であった。
この宴会では今まで食べたことがない河魚(名前は記していなかった)の空揚げが出た。
一生忘れられないくらいの美味であった。
この宴会の後で、謝先生と童先生が相談して、私に客員教授の称号をくださった。
翌日、上海に飛んだ。夜の便なので、その間、謝先生等が観光に付き合って下さった。
空港で別れるとき、謝先生の目に涙が光っていた。
まるで、戦場に向かう子どもを見送る父親の涙のようであった。私は「再見(ツァイツェン)」の言
葉も言えず、胸が痛くなってゲートを潜った。
武漢では、この地方の有名な緑茶を頂戴した。空港では三時間待たされて、やっと離陸。
アナウンスも何もない。ロシアのシェルメチェボ空港で五時間待たされたことがあったが、それよりは良しとするか。
上海に着いてからひどい目に遭った。
今日は飛行機が飛ばないと聞いて迎えに出ていた
上海の音楽関係の人たちは帰ってしまったので、私たちは行き先も分からず立ち往生。
金さんは怒り狂って電話をするが通じない。
夜中なので無理なのだが金さん、電話を掛け続けた。
結局、私と金さんでと手押し車を持って来て長い道のりを歩き、やっとタク
シーを掴えて虹橋賓館というホテルに辿り着いた。
ここでもホテルはうるさくて、上のダンスホールの音がドンドンと聞こえる。
耳栓をしても響いてきた。
上海では音楽院の寮に泊まるようにいわれて見に行ったが、音が出せる状態ではなく、
自費でホテルに泊まるといったら、金さんが交渉してくれて、ホテル代は北京の音楽家協
会で払ってくれることになった。
翌年、團先生と一緒に来て、同じホテルに泊まることになるのだが、面白い名前なので記しておく。
「上海学術活動中心、中国科学院」という名前の良いホテルで、一七〇号室。
次の年も同じホテルの同じ部屋であった・・・。