「音楽現代」2006年2月号 第7回《音楽と旅して》(その2)

「子供たちの響き アジア」実行委員会  代表 小林武史

 日本では、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)はまったく孤立していて、何となく恐ろしい国
だというイメージがある。
 これは明治時代から続いている”誰かの何かの利益のために”、マスコミまで動員しての宣伝にほかならないように思う。
過激な発言をするように仕向けておいて、それに反発発言した場面だけを取り上げて世間に流すあの手法だ。
しかし、テレビなどで”一億総白痴化”された視聴者・日本国民には考える余裕もなく、画面に映るものだけに囚われてしまう傾向がある。
大変危険なことである。
 私は”喧嘩武史”といわれて来たが、十代の頃はともかく、私が実際にケンカをしたのを見
たことのある人はいないはずである。やたらと噂を流して喜んでいる人が多すぎる。
前にも書いたが、日本人は人の不幸を喜び、足を引っ張ることが好きなようである。
そのくせ自分の意志を主張することができず、大勢には弱い。
”長い物には巻かれろ”だ。
 そして日本人は、何故か、どうしてか、という問いには不快感を示すことが多い。
すべての事柄には、何故か、どうしてかという理由があるはずなのに。
人間同士、互いに理解を深めることは最も大切なことではないか。
 さて、私たちが見た北朝鮮の現実はどうであっただろうか。
 まず西側も含めて何十ヵ国も参加していることに驚かされた。
そしてこの何十ヵ国の人たち何十日人の招待客に対するスケジュールの作成は、
さすがに社会主義国家だと思った。これは良い意味でも悪い意味でも、である。
 私は社会主義体制時代のチェコに住んでいたことがあり、そのシステムがどうであるかを多
少は知っているつもりである。
現在、チェコもソ連も、またソ連圏であった国々も社会主義体制は崩壊してしまった。
しかし中国や北朝鮮、そしてミャンマーもラオスもヴェトナムも社会主義国家である。
日本がどうして北朝鮮だけを差別するのか、私には分からない。
 問題を宗教に置き換えてみよう。
 日本では、回教 (イスラム教) というと過激なイメージを作り上げている風潮(むき)がある。
 それはアラブ、パレスチナというイメージに繋げて、”テロ”という言葉を連想させるからである。
テロをやっているのにも”理由”があるはずで、なぜテロに走るのかという原因を知ろうとはしない。
 敬虔なクリスチャンという言葉をよく開くが、敬虔な回教徒、敬虔な悌教徒という言葉は開かない。なぜなのだろうか。
 キリスト教の中には派閥が沢山あって、その人は何とか派だから悪い、という大人たちの話を
かつて開いたことがある。実にくだらないことである。
 私の母はメソジストで伯母はプロテスタントであったが、宗教上のことで言い合いしたのを聞いたことはない。
父の母は天理教徒で、私の友人には創価学会員もいれば、生長の家の人もいる。
お前は儒教徒だから、お前はキリスト教徒だからけしからん、とはいえないはずである。
 現在は「共生の時代」だ、ということを念頭におくべきである。
社会主義体制が けしからんというけれど、元社会主義国家であった国々の国民の中には、昔の
 ほうが良かったという人が存在していることも事実である。
 ヨーロッパの先進国も、日本も社会主義制度を取り入れていることを忘れてはならない。
音楽家を含めて、各国には組合があり、年金や国民健康保険制度等々があるではないか。
社会主義制度の”成功例”を知りたければ、日本を見よ!と言われているほどだ・・・。
 私が言いたいのは、各家庭にはその家のしきたりがあり、家族構成があり、宗教も違うとなれば、
他家にもそれぞれ理由があってしきたりがあるので、議論はしてもよいが、非難したり見下してはならない、ということだ。
 私は社会主義者でもなければ、資本主義者でもない。
ただ“共生主義者”にはなりたい。
 私は音楽で共生することを夢見て行動する一個の人間である。
近衛秀麿先生の言われた、鳴らし響かせることを信条とし ている。
それは音の世界だけではない。

 さて、北朝鮮行きはまだ続く。
この芸術祭に参加しての楽しみは、まず食事。
それといろいろな国の人と知り合いになれること。
さらに、マスゲームの素晴らしさは世界に冠たるものがある。
そして最後の日の打ち上げパーティーでは、各国の人たちと朝鮮の人をも交えてのダンスパーティーがある。
千人もの人たちの中で踊ることは、滅多に経験できるものではない。
 二回目は一九八七年、やはり「四月の春、親善芸術フェスティヴァル~」に招待された。
そのときの団長は、前向同行された音楽評論家の丹羽正明先生で、
ピアノ独奏者として堀江真理子さん、チェロの秋津知承さん、その他にピアニスト一名、歌手四名、作曲家一名、私を入れて
計十名の大世帯になった。
 三回目は一九九一年、やはり四月の芸術祭に参加したが、私が団長であった。
団長には特別に個人の通訳と車(ベンツかヴォルヴォ)が用意される。
このときは音楽学校の生徒を教えるということで、私だけ先に出発した。
 毎回不安に感ずることだが、北京に到着したときに、空港に迎えに出ているはずの
北朝鮮大使館員が時間通りに来ないことである。
 私たちは何処に行って何というホテルに泊まるのかを知らされていないので、迎えの人がい
ないとどうしてよいか分からないのである。
 私は長年の海外生活や旅行の経験を活かして、先に先にと用意をすることにしている・・・。

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