「音楽現代」2006年3月号 第8回《音楽と旅して》(その3)
「子供たちの響き アジア」実行委員会 代表 小林武史
私は以前、ドイツからスペインに行くことになっていたが、「契約書」を送るように
何回連絡しても返事がなかったので、一方的にキャンセルして行かなかったことがある。
相手側は大変困ったらしく、後からポスターやプログラムを送って来たが、
初めて行く、言葉も分からない国に対して、行かなかったことを今でも、私は後悔していない。
三回目の訪朝の時も、在日本朝鮮人総聯合会や在日本朝鮮文学芸術家同盟の方々に
お願いして、必ず北京の空港に迎えに来るよう念押しした。
しかし、万が一ということもあるので、私なりに、日本の旅行会社に頼んで、
日本語のできる通訳兼案内人を用意してもらった。
また北京には、中国音楽家協会の職員で日本語の通訳をやっている金千秋という女性の知人もいて、
いざというときは何とかなるはず・・・。
日記帳を見ると当時の様子が蘇って来たので、思い出すままに書いてみることにした。
このとき私は団長として行くことになったが、音楽学校の生徒を教えることと、演奏すること
で、”三足の草鞋~”をはくことになった。
《日記》
一九九一年二月二十九日、JAL七八一便北京直行、十時成田発。機内は空いていた。
無事、北京に到着。空港から外へ出たら何と姚文先生(中国音楽家協会の人)が誰かを迎え
に来ていて、ばったり出会った。
私が旅行社に頼んであった中国の案内人、陳蕙娟(チンゲイケン)さん(女性)が、
小林武史と書いたプラカードを持って立っていた。
十五歳まで日本で育ち、前に團伊玖麿先生の通訳をしたことがあると言っていた。
前回と違って、今回は北朝鮮大使館から、「四月の春芸術祭」の委員会の人が時間通りに迎えに出ていた。
途中でヴィザの書類を出したら、これがあれば大使館へ来る必要がないとのことで、
パスポートと一緒に預けて、明日、午後一時にホテルで会う約束をする。
私の頼んだ陳蕙娟さんにお願いして、金千秋さんを捜して貰った。
すぐに金さんから電話があって、先ほど空港でお会いした姚先生と一緒に、ホテルで会う約束をする。
ところで、どういう訳か、私は旅をする度に風邪をひいたり腰が痛くなったり、腕が痛くなったりする。
陳さんが余りに親切なので、百二十元の約束だったけれど百五十元あげたが、どうしても受け取らない。
午後六時に金さんと姚先生が迎えに来て、料理屋に行く。
外国人や日本人はほとんど行かない店で、沢山の種類があったが、皆で食べたものは鴨、海老、スッポン、
その他メチャメチャ。(と日記に書いてある)
中国の音楽界の話を開く。中国にまた招待されているのだが、ピアノ伴奏者がいない。
スイス人との混血で、凄いピアニストがいるとのことだが・・・。
ホテルに帰ったら、躰がザワザワした感じがなくなっていた。こちら、時差は一時間。
三十日七時に朝食。金さんから電話。私の忘れものと一緒に心臓の薬を届けてくれたので、
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で弾くことになっている曲を、部屋で聴いてもらった。
もつともその前に三十分ぐらい、さらっておいた。
正午にチェックアウトだというのに、十一時頃から何回もフロントから電話があり、
ボーイがノックしたり、何とうるさいホテルだろう。
陳さんにお願いして、正午にチェックアウト。
話の分かる人がいないと、チェックアウトのときに揉めることが多い。
コンピュータが壊れたといってごたごたしたが、陳さんがうまく処理してくれた。
北朝鮮に行くには、日本と国交がないため、どうしても北京に寄って一泊してヴィザを貰う必要がある。
そして、帰りにも一泊することが多い。
北朝鮮大使館の人がパスポートとヴィザを届けてくれた。
空港に行くと皆、沢山の荷物を持って並んでいた。
大使館の人の顔で一番前に出してもらい先に乗せてくれる。
やはり平壌に行く日本人がいたので席を取ってあげたが、途中で私だけ呼ばれて、
ファーストクラスに座らせられた。何だか申し訳ない。
機内では軍歌みたいな音楽が鳴っていて、うるさい。約一時間半で無事、平壌の空港に着陸。
四人が迎えに出ていた。これから滞在する期間、私のために用意されたベンツに乗り込む。
今回の通訳は、若い男の学生。
高麗ホテルに入る。二号棟の十七階、二十九号室。
通訳に、私のことは何も伝わっていないらしく、私は演奏家であるが、
音楽学校で子どもたちを教えるのだ、と言っても何も聞いていないという。
食堂に行けば、自分で金を払えという。ボーイに開くと、もちろんタダでよいとのこと。
スケジュールを開いても何も分からず、一人で食事。
夜九時に電話があって、明日の朝八時三十分に二階のロビーで打ち合わせがある、という。
三月三十一日六時半起床。朝食はお粥。
八時半に打ち合わせに行ったが、何ということはない。
十時に音楽学校に行く。この音楽学校は、最初に團先生とご一緒したときからの付き合いで、
二回目の一九八七年からレッスンをさせて戴いている。
正式名称は、「平壌音楽舞踊大学」である。
その内容は、民族音楽から西洋音楽、民族舞踊からバレエまでと、幅広い。
この国では幼稚園は四歳から六歳。
初級教育なるものが、その後四年間、高等教育が六年間で、全般的に十一年間制義務教育とされる。
その後高等教育は大学四年~六年。内訳は、高等専門学校が二年~三年。
教員大学が三年。総合大学、単科大学、工場大学が四年~六年。
これが二十二歳までで、その後二十六歳までが研究 院となっている。・・・・・・・