「音楽現代」2005年10月号 第3回 《共生》《ヨーロッパでの友》
「子供たちの響き アジア」実行委員会 代表 小林武史
一九九七年一月一日のNHK教育テレビで、「未来潮流」という番組をやっていた。
京都大学の生態者井上民二教授のお話が中心であった。
他にも何人かの学者先生のコメントがあったが、我が意を得たりと思うところがあり、メモしておいた。
井上教授は、マレーシア領のボルネオ島で長年熱帯雨林の研究をされていて、
熱帯の森では競争を超えた「共生」があることを発見し、そのことを提言しておられた。
ダーウィンの進化論に反するかもしれないが、強者が生き残るということがすべてではなく、
一億年前からの動・植物は現在、共生することを覚えた、といろいろな例を出され、実証もされた。
例えば「マカランガ」という植物は蟻に住居を与えて、その中にカイガラ虫まで住まわせて、
そこから出す排泄物の蜜を蟻に吸わせ、また蟻は、他から葉を食べに来るマカランガにとっては害虫に
なる毛虫などを排除している。植物の茎の中に蟻を住まわせることは自滅に思われがちだが決して
そうではなく、現在は共生するものが多々ある、とのことだ。
井上教授はこうも言われた。
強いことだけでは生き残れない。協力することが大切である。共生とは決して甘いことではない。
”競争”することは終わりに近づくことである。
現在は生き残るために共生しなければならない、と。
また、ある学者が大腸菌の研究を発表されてもいた。
二種類の強弱の大腸菌を同じフラスコに入れて攪拌して置いておくと、決して強い菌だけが
生き残るのではなく共生してしまうという事実を見て、私はピックリしてしまった。
東南アジアの熱帯雨林の樹が、アマゾンやアフリカなどの樹木よりも倍くらい高く上に成長して
いたことも不思議であるが、もっと不思議な事実もある。
四年か五年ごとに、ボルネオ熱帯雨林の樹木が一斉に開花するのだ。
何故かは分からないが、四、五年おきに開花するのである。
その開花時に、たくさんの動物が集まって来る。
もちろん鳥も昆虫もである。普段の三倍もの鳥や昆虫が集まって来て、
なんとそのほとんど(百何十種類)が新種であるそうだ。このことに私は大変驚かされ、また感動もした。
新しいものが生まれる—井上教授が言われる言葉の中に、「色メガネを捨てて、人類が本気で
共生を考えるべきときが来ている。対応性を考えて、色々なヒントを無視しないように。
時代からは見えないものを考える。何時も遠くを見ること」
等々があり、また司会者の言葉としても同じ意味のことが語られていた。
私は感激しながらテレビを見、私がやって来たことは正しかった、と自信を持った。
私は音楽で和を作り、何とか平和をと祈り続けて来たが、ここに″共生″という言葉を開いて、
新たに更なる夢を膨らませることにした。
二十九歳の終わりにヨーロッパに渡り、本当は日本に帰って来たくなかった私は、″甘言″を持って連れ帰られ、
人に利用されたり騙されたりで現在に至っているが、その分だけ人生経験が出来たと喜んでいる。
また日本に帰って来たおかげで平和運動が出来るのであって、ただヴァイオリンを弾いているだけの
つまらない男にならなくて良かった、と思ってもいる。
私がオーストリアのリンツ州立ブルックナー交響楽団のコンサートマスターになったとき、
現地の新聞に写真入りで大きく記事が出た。
私はもちろん喜んで、自分も有名になったものだと思ったが、後から考えると、どうも少し違うようであった。
なぜアジア人をコンサートマスターにしなければならないのか、ということが書かれていたようである。
世界各国の応募者の中からテストを受けて、私が一番だったのだから仕方のない話なのに、
後で随分いじめられた。一年もすると皆と仲良くなったのだが…。
あるとき、私の所属するオーケストラの演奏旅行がドイツであった。
ところが、オーケストラ側が私に休暇をくれた。
その理由は、黄色人種がトップの席に座っているのを外国の人に見られたくなかったからである。
一九六四年とはまだそういう時代であった。
私は一九六一年の暮れに、当時社会主義国家であったチェコ・スロヴァキアに、
やはりコンサートマスターとして招かれたが、生活が厳しい中で、皆が私には親切であった。
貧しい社会主義の国の中で、私は人の心を見た気がした。
日本の軍国主義時代がそうであったように、社会主義国家も政府批判は許されず、自分の思想を
表に出すことは許されない。その中でも私の音楽環境は最高のものであった。
現在チェコとスロヴァキアは分かれてそれぞれ独立しているが、私が住んでいた所は、
現在チェコと呼ばれる国のモラヴィア地方のブルノ市であった。
貧しい人たちは、人の貧しさを理解出来るし、苦しい人たちは他人の苦しみも理解出来るという
ことを知った。頭の中では分かっていても、実行することの難しさも経験した。
チェコでは、食べ物が無いときに友人が私に分けてくれたし、
病気のときは皆がラードを塗った黒パンやレモンなどを差し入れてくれた。
当時バターはなく、ラードはご馳走であった。そのとき、
レモンは酸っぱくなく甘いものだと思った。
それほど身体がヴィタミンCを要求していたのだと思う。
自分たちは一ヵ月に一個すら手に入らないものを、私のために持って来てくれた。
約四十五年もの間、異国との交流をまだ続けている。
この間、たびたびチェコに演奏旅行に行っているが、昔の友人に会うのがどれくらい嬉しいことか。
苦しいときに助け合った友人がどんなものか・・・。
たった三年間のことだったが、私にとっては何よりの財産である。
私が三年間コンサートマスターを務めた国立ブルノ・フィルハーモニーオーケストラを今でも誇りに思っている。