「音楽現代」2005年9月号 第2回《「ヒンデミットのこと」》《「近衛秀麿先生と「共生」》

「子供たちの響き アジア」実行委員会  代表 小林武史

《ヒンデミットのこと》

 「ヒンデミット ヒンデミット」と呼ぶ声に、黒い犬が五十メートルぐらい離れた
隣家の庭から、鈴の着いた首を伸ばしてこちらを見た。
 私の友人で、ピアニストの家での話である。
友人の名はパヴォル・コヴァーチ。スロヴァキアの出身で、
チェコ・スロヴァキア (社会主義時代)に家族で亡命してドイツに定住し、
現在は町の音楽学枚の講師をしていて新しく家も建て、平和な暮らしをしている。
 彼の家族全員が隣の家の犬ヒンデミットを愛していて、餌をやり水を取り替え、
散歩に連れて行ったりしている。
 ドイツ・シュワーペン地方の小さな町、クルンバッハのコヴァーチの家で生き物は飼えない。
何故ならば、彼と奥さんは音楽学校に勤めていて、娘は遠い町に住み大学に行っているし、
息子は学校から帰ると家にはいるが、コヴァーチ本人は国内や海外の演奏旅行が多く、家族が揃って団欒と
いうことは少ないからだ。
 彼は亡命してから大変な苦労をして、お金を貯え、この地で職を見つけ、家を建てた。
庭も広く、その庭の続きは牧草地で、はるか彼方には林があり、毎日シカが散歩に出て来る。
鳥がさえずり、他にもいろいろな動物がいると言っていた。
 少し離れた隣の家に飼われているのが、ヒンデミットだ。
 そこの主人は独り住まいで、しかもほとんど家におらず、面倒を見ているのはコヴァーチの家族である。
別に頼まれたわけではなく、動物が好きなのと、あまりに可哀相なので、彼の家族が散歩に連れて行ったり、
体を洗ってやったり、またコヴァーチ夫婦が旅行するときは、息子が内緒で自分のベッドで
ヒンデミットと一緒に寝ているとのこと。
 その犬の種類はラブラドール・レトリーヴァーで、盲導犬としても有名になっている。
私もヒンデミットと一緒に散歩させて貰ったが、男性が鎖をもっているときはぐいぐいと引っ張るのに、
女性が鎖を持つと非常におとなしく、左側にきちんとついて歩く。息子と一緒だと、鎖を外しても、
彼が止まると犬も止まってきちんとお座りをする。ヒンデミットは、一切訓練を受けていないのに。
 しかし悲しいことに、また素晴らしいことに、めったに家にいないヒンデミットの主人が帰って
来て、指をパチンと鳴らしただけで、その犬はすっ飛んで家に帰ってしまうのだ。
 隣の主人は、イタリア人である。
 ある日、コヴァーチがそのイタリア人に、この犬は何故ヒンデミットという名前なのか、と尋ねると、
犬の主人は、あなたはドイツの偉大な作曲家ヒンデミットを知らないのか、と逆襲したそうだ。
しかしそのイタリア人は音楽とは無縁の人で、ピアニスト・コヴァーチの疑問はますます深まったらしい。
そしてそんな主人を持つヒンデミットをコヴァーチはますます可愛がった。
 現在、ヒンデミットは死んでしまって、飼い主であったイタリア人も引っ越してしまった。
コヴァーチの娘は結婚して子供が生まれ、息子は軍隊に入り、今は、夫婦二人で、彼らの歴史の宝庫で
ある、広い庭つきの家で元気に暮らしている。私とコヴァーチの付き合いも三十年余になる。
 ドイツでは、何回も、コヴァーチと共演した。
ドイツ国内のどこかの町で、人形を買ってヒンデミットと名前をつけて、我が家に飾ったことがあった。
犬のヒンデミットが死んでから、我が家のヒンデミットもいなくなり、彼とは電話で
最近どんなコンサートがあるのか、また今度いつ会えるのか、等々、ヒンデミット抜きの会話をしている。
以前は必ずといって良いほど「ヒンデミットは元気か」と言うのが挨拶の言葉でもあったのに、何となく佗びしい昨今ではある。
 誰かに、パチンと指を鳴らされることで、現実に引き戻される私たちなのかも知れない。
人生には、色々な想い出がある。ヒンデミットも私の歴史の中の想い出の一つである。

《近衛秀磨先生と「共生」》

 経験という言葉を私は好きである。
 近衛秀麿という指揮者がいた。
 近衛秀麿先生は、先生の家系の中では異端者であったのかも知れない。
当時は、音楽家というものがまともな職業とは思われなかった時代であり、
それに兄の文麿氏は公家の中でも筆頭の公爵であった。
文麿氏は、第二次大戦中、首相を務めた人で、戦後、戦犯容疑者になり自殺した。
弟の秀麿先生は子爵として一八九八年に生まれた。
学習院と帝大(現在の東京大学) に学び、山田耕筰に作曲を学び、
一九二三年にヨーロッパに留学。
二四年には帰国して、山田耕筰と共に日本音楽協会を結成した。
その後脱会して、新交響楽団を組織、育成に十年間も努力した。
 それからアメリカ、ヨーロッパなど世界中を飛び歩き、各国に勇名を馳せた。
私もヨーロッパで、プリンス・コノエの噂を開いたことがある。
戦後日本に帰られてから、エオリアンという小さなオーケストラを作られて、その後、近衛交響楽団と名前を変えられた。
 その昔、ベートーヴェンの交響曲の総譜が手に入らない頃、秀麿先生はベートーヴエンの交響曲
一番から九番までを全部、ご御自分で写譜なさった話は有名である。
そのために何番の何楽章といわれても、いつでも諳んじて書けたそうである。
 「武史、経験だよ、経験だ!」といつも私に話して下さった。
理屈を並べても仕様がない、経験に勝るものはない--これが先生のロぐせのようでもあった。
先生の経験話は音楽だけにとどまらず、私の心の中に先生の想い出は沢山ある。
 先生がいつも言われていた言葉は、「響かせること、鳴らすこと」。合奏とは響かせることという意味が、
音楽以外の事柄にも当てはまり、私の脳にずしんとくる。合奏は、一人では出来ないのである。
一九七三年六月二日、近衛先生と園伊玖麿先生と私とでお会いすることになっていた約束
の日に、病気で急逝された。
 近衛先生の言葉を想い出してみて、合奏で世界中が〃共生〃できないものか、と思うようになった。
近衛先生には、よくお小遣いを貰ったり御馳走になったりした。
何よりも、先生が世界中から集めてこられた、音楽に対する経験を沢山いただいた。
昔、先生に教えて戴いた音楽が、今頃になつて、ああ、こういうことだったのか、と気が付くことがままある。
「先生、こういうことだったのですね」と言いたくても、もう先生はここに居られない。
 近衛先生は、世界の中の大音楽家であった、と私は今でも思っている。

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