第21回『練習不足の不安が表れる 演奏会前に見る悪夢』 小林武史

野原を走っている。空は曇ってきて、雨が降ってくる。今度は沼の中をこぐように歩いている。
汚いレストランというか、食堂というのか、人がまばらに座っていたり、
立っていたりしている中を通って、うす暗い部屋に入る。
ない、ない、いくら探してもない。きっと電車の中だ、いや練習所に置いてきたのかもしれない。
もう時間がない。でも探さなければならない。何だか寒気がしてきた。ずぶぬれだ。もうすぐ開演時間だ。
これは演奏会が近づくと必ずといってよいくらい見る夢である。
夜の開演時間が迫っているのに、楽器がなくなってしまって、探しているのである。
しかも、それがどこの国にいるのか分からず、チェコの風景だったり、
インドネシアだったり、沼ではワニが出てきたり、カバが出てきたりする。
人間もチェコの友人が出てきたり、日本人だったり、中国人だったり、
親切な人がいたり、冷たい人がいたり、支離滅裂なのである。
途中で目が覚めたとき、起き上がって、手を合わせて神に感謝する。
ああ夢であった。夢でよかった。翌日から猛勉強を始める。
こういう夢を見るときは、決まって勉強不足のときで、演奏会に不安があるときなのだ。
それにもかかわらず、同じことを繰り返す自分に愛想をつかすことがある。
ティンパニーが鳴っている。これはベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の前奏である。
しかも、私はまだステージに出ていない。
ステージのそばにいて、これから出ようとしているのに、前奏が始まった。
しかも、ベートーヴェンなど用意していない。他の曲をさらってあったのだ。どうしよう、どうしよう。
それでも、ステージに出なくてはならない。
出て行って指揮者のそばに立つ。調子を合わせるのを忘れていた。
大変だ、もうすぐ前奏が終わる。弾かなければならない。
ここで目が覚める。今日から10時間さらってやろうと思う。
朝起きてコーヒーを飲み、さあやるぞ、と思ったとき、電話がかかってきて、
それに関連して、書類を引っ張り出し、何だかんだと午前中が消えてしまい、
夕べはよく眠れなかったからと、昼寝をして、夜になり、少しヴァイオリンを弾き、
明日こそは、と思いながら、また恐ろしい夢を見ることになる。
特に大切な演奏会があったとき、田舎に一ヶ月閉じこもって勉強したことがあった。
その演奏会では芸術祭賞をいただいた。
空を飛んでいる。自分で飛ぼうと思うと、いつでも飛べるのだ。
山越え、野超え、畑の上も低空飛行で飛べるし、屋根の上に降り立つこともできる。
この夢を見た翌日は気分が良いのだが、最近お目にかからない。
だれにも言い訳がきかない演奏会が、また近づいてきた。(バイオリニスト)

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