第17回『それでも外国に行きたい 演奏旅行も楽ではない』 小林武史

念願のソ連へ演奏旅行に出かけた。
1989年の12月。モスクワでは、音楽院の中にあるラフマニノフ・ホールでリサイタルをやった。客の入りは約50人。
その理由は、ホールの正面入り口が工事中で閉鎖されていて、せっかく来た客は皆帰ってしまったとのこと。
ソ連邦崩壊前のことで、オーガニゼーションはゼロに等しく、何があっても告示はしない。
ホールの事情に詳しい人たちは裏口から入ったそうで、好意的な拍手を頂いた。
レニングラード(現在のサンペテルブルグ)のグリンカ・ホールの暖房が壊れたので、キャンセルすると報告があって、
ゆっくり休めるのではないか、と喜んでいたら、契約回数の演奏会はやらなければならない、といわれた。
夜行列車でラトビアのユールマラに行かされた。
そこの音楽院のホールでリサイタルをやらされたが、客の入りは13人。
それもほとんどが学校の先生と生徒たちだった。宣伝もしないで、いきなり音楽会をやってもだれも来はしない。
伴奏者のスミルノフ氏がソロを弾いてくれたり、話をしたりして時間を持たせたが、真冬のこととて疲れる演奏会であった。
スミルノフ氏が、私を慰めるためだと思うのだが、面白い話をしてくれた。
チェリストのロストロポビチが、まだアメリカに渡る前のこと、当時のソ連領内の田舎に演奏旅行に行った。
前宣伝もしなかったこともあって、何と客はたったの4人。
前半のプログラムが終わって、後半に入る前に客の一人が、客席から叫んだ。
マエストロ、私たち4人のためだったらもう十分だ、それより皆で一杯やりませんか?
ロストロポビチは喜んで、ピアニストと共に6人で酒を飲みに行った。
この話は本当なんだ、とスミルノフ氏は何度も念をおして私を慰めてくれた。
ロストロポビチは酒好きで有名であり、彼が最初に日本を訪れたときに一緒に食事をしたことがあった。
日本酒の一升びんをあっという間に空にして、これは水だ、といっていた。ロシアの強い酒を飲み慣れていたせいであろう。
ラトビア以外は飛行機で移動したのだが、機内はいつも満員で、暖房なし。
毛皮のオーバーを着て、毛皮の帽子をかぶっても寒くてがたがたふるえていた。
国内線でも国が大きいので何時間も乗ることがある。
冷えてトイレに行きたくなるのだが、混んでいるのと座席が狭いのとで、立つこともできない。
空港に着いてもトイレがなかったり、またホテルの暖房が効かないので、毛皮のオーバーにくるまって寝たり、
毎度のことながらすべて条件が整っている演奏旅行は少ない。
演奏会が終わって帰って来ると、ホテルの食堂が閉まっていることがたびたびある。
それでも外国に演奏旅行に行きたい。まだ行っていない国がたくさんある。(バイオリニスト)

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