第3回『矢印の付いた道』 小林武史
「ひとつの風が吹くと皆、そちらに靡く(なびく)。
自分のことだけを考えて、他人のことは考えない。日本は衰退の一途を辿っている・・・」
あるテレビ番組での、某ニュースキャスターの言葉である。
人間だから、靡くのも流されるのも分からなくはない。
しかし、人間の個性というものが捻じ曲げられ、
矢印の付いた方向や道を歩かされているような気がしてならない。
一昨年、ヨーロッパ演奏旅行の途次、ウィーンの国立オペラ劇場で、
ジュゼッペ・ベルディ作曲の「ナブッコ」を観た。
オペラは初めて観る、日本の若い女性を二人連れて。
1964~67年まで、私はオーストリアの州立リンツ歌劇場オーケストラで
コンサートマスターを勤めていた関係から、オペラというものがどういうものか、理解はしているつもりである。
「ナブッコ」が作曲されたのは1840~41年で、正式名は「ナブッコドノゾル」という王様の物語である。
時は旧約聖書にある第二次エルサレム攻略の時代。
すなわち紀元前586~87年の話だ。
荘厳な音楽で幕が上がり、オペラが始まった。
すると、舞台装置はほとんどなく、どういうわけか、ガラス箱がひとつ置いてあるだけだった。
最初に出てきた男性歌手は、白いアンダーシャツの上からズボン吊りをしただけの姿だった。
さらに驚いたことには、ナブッコ王がダブル背広に赤いネクタイを締めて、
編み上げ靴を履いて出て来たではないか!?
オーケストラはウィーンフィル、指揮者も一流、歌手も一流の人たちで、文句のつけようはない。
しかしながら、舞台装置と演出が時代錯誤も甚だしく、無性に腹が立って仕方がなかった。
このような演出に、観客や勇気のある評論家から抗議があっても無視されて、
公演は続行されるし、チケットは売り切れるのである。
売れれば何をやってもよいということか。
日本でも同じような演出が流行っているようだ。
予算がないからというのが一つの理由なのだそうだが、
ウィーン国立オペラ劇場では、その理由は断じて成り立たない。
ウィーンというのはオーストリアの表玄関であり、
ここのオペラを観に来るために、世界中から人が集まってくるのだ。
「最近、ウィーンに昔ながらの伝統や匂い、すなわち芸術的個性がなくなった」と土地の人は話していた。
世界中がおかしくなっている。
もちろん、日本も然りだ。
個性が持てなくなり、表現することも萎縮させてしまうような雰囲気すらある。
「斬新な演出」という言葉で、嘘の歴史が残されてしまうのか・・・。
生まれて初めてオペラを観た件の二人の女性に感想を聞いてみた。
彼女らは「素晴らしかった」と言った。
紀元前の人間が、ダブルの背広を着ていても違和感を覚えなかったのか。
それとも、矢印の付いた方向や道を歩かされているからなのだろうか。