第8回『みんないいやつばかりいて 人生もブラボーとブーイングが』小林武史
ブラボー、ブラボーの連呼に体がしびれてしまった。
1955年、東京交響楽団のコンサートマスターとして入団し、初めてのコンサート。
私は24歳、曲はショスタコーヴィッチ作曲第五交響曲であった。当時オーケストラは大体三つあった。
大体というのは、他に宝塚のオーケストラや映画音楽専門のオーケストラくらいだったと思う。
近衛秀麿先生のオーケストラに在籍していたこともあり、エオリアンという室内オーケストラがあったのもそのころだったかもしれない。
そうだ、東京放送管弦楽団というのもあった。
とにかく、シンフォニーを定期的にやっていたのは、NHK交響楽団、東京フィルハーモニー、東京交響楽団ぐらいだったと思う。
その中で、東京交響楽団は、初演もたくさんやっていた。
ショスタコーヴィッチ、プロコフィエフなどのシンフォニーを数多く演奏していたし、いろいろな海外の指揮者も招へいしていた。
初演ということは大変なことで、オーケストラの練習量も増やさなければならず、
従って経費もかさむし、国営や州営、市営などというオーケストラのない日本での運営は困難を極めていた。
約5年間在籍して、私はチェコに飛んでしまった。
もちろんまた東響に帰るつもりいたのだが、当時の団長であった橋本?三郎(けんざぶろう)さんが自殺したという手紙がブルノーに届いた。
その時のショックと悲しみは筆舌に尽くし難い。
私をかわいがり、育ててくれた人、対等にケンカもしてくれたし、花札も教えてくれた。釣りにも連れて行ってくれた。
その後、またしても悲しいニュースが入った。
常任指揮者であり、東響時代にたくさんの初演をしていただいた上田仁(まさし)さんが亡くなった訃報(ふほう)であった。
橋本さんはハシヤン、上田さんはマーチャンという愛称で呼ばれていた。
ハシヤンはオーケストラの経営が行き詰まって責任を感じて入水自殺したとのことである。
当時副団長だった伊堂寺さんが帰国した私の顔を見て、ハシヤンを殺してしまった。おれをなぐってくれといって涙を流された。
伊堂寺さんが亡くなられるまで、私のマネジメントをしていただいた。
芸者も知らないで外国に行くのはかわいそうだといって、浜松町の新地に連れて行ってくれた事務局長も今はいない。
昔の仲間も今の東響には見当たらない。
30年の前のことだが、一生忘れられない。ハシヤンはチェコに会いに来てくれた。
その時、お前は日本に帰って来るな、といっていた。虫が知らせたのだろうか。
皆けんかしながらも仲が良くて、東響同窓会をつくった。
指揮者の森正先生に会長をお願いしたのだが、やはり亡くなられて、今は開店休業である。
ヨーロッパでは、ブラボーの声と、ブーイングと両方あるが、日本ではあまりブーイングの声は聞かれない。
過去の人生にもブラボーとブーイングはあるのだが、東響時代はすべてブラボーだったと思う。
事務局長が一声五百円のブラボー屋を雇った話をしていたが、今でもあるのかどうかは知らない。(バイオリニスト)