「音楽現代」2007年3月号 第20回《北京(その2)》
「子供たちの響き アジア」実行委員会 代表 小林武史
台湾に団体(「コレギウム・ムジクム東京」というアンサンブルを私は主宰している)で演奏
若したとき、全員ファーストクラスに乗せてもらった。
そのとき、生まれて初めて飛行機に乗った仲間がいて、「飛行機とはなんと素晴らし
いものだ、これなら何度乗ってもよい」と言ったので大笑いしたことがあった。
私の最初の中国訪問はこれと似たようなもので、全部用意されていて、大歓迎され、
毎日ご馳走攻めなので、中国は私にとって“夢の国”になってしまった。
肝腎の演奏会のほうは、我々は良い演奏をしたつもりだったが、聴衆の態度が悪い。
客席は超満員の盛況であったが、演奏中に歩き廻るし、
何かくちゃくちゃと食べているし、大声で話をする。
しかし、日本でも昔はそういう音楽会があった。
演奏中にカランコロンと下駄を鳴らしながら入って来るお客もあったのだ!
発展途上国ということであれば仕方がないのかも知れないが、演奏家にとっては“地獄”である。
なぜならば、略譜で弾くということがどのくらい大変なことか想像してほしい。
楽譜を頭に入れて、間違わないように弾くだけでも大変なのに、
それを何百回も繰り返して練習し、なお音楽を創りだしていかなければならない。
ある世界的な指揮者が言った。「本番を二百回やればその曲をマスターしたことになる」。
またある指揮者はこうも言った。「ひとつの協奏曲を暗譜したら、今度は他のことを考えても
指が自然に動くように何百回も弾きこなせ」と・・・。
私たち演奏家は、集中力が崩れると頭の中が真っ白になってしまうことがある。
曲の途中でストップしてしまうことさえある。
暗譜で弾いているときに、前をうろちょろされたり、話をされると弾けなくなってしまうのである。
また、マイクロフォンの前で囁くような声で唄う歌唱法も演奏法も、クラシック音楽にはないのである。
どのくらい生の声が通るか、またどのくらい楽器の音が通るかは一番大切な基本である。
当時の(というのは十年後には客の態度は、ヨーロッパ並みになっていた)
観客の態度はまさに酷いものであった。
クラシック音楽を初めて聴く人が多かったといっていたが、その中で
自分自身と闘って演奏する我々は大変であった。
中国の音楽家たちは非常に礼儀正しく、友好的であった。
中国で一番立派なオーケストラといわれていた中央交響楽団と共演することになっていたが、
そのときは演奏旅行中で、北京電影楽団と共演することになった。
このオーケストラは、映画音楽などを専門にやっているオーケストラで、演奏会は普通のオーケストラより
は数が少ないといっていた。
前の日はピアノ伴奏 (浅野繁君) のリサイタルであった。
今日から團伊玖磨先生と中国側から姚関栄(ようかんえい)先生の二人の指揮者で、
團先生のシンフォニーとヴァイオリンとオーケストラのためのファンタジー、
それにモーツァルトのヴァイオリン協奏曲を、二人の指揮者が互いに振ることになった。
もちろん独奏者は私である。
練習所に行ったら、楽団員が全員正装で迎えてくれた。TVも取材に来ていた。
この日の夜は、リサイタルがあった。
お客さんは誰一人途中で席を立つ人もなく、最後まで聴いていたので大成功といわれた。
ここの演奏会は終演後、お役人やら音楽関係者がステージに上がって、
私たちと一緒に写真を撮る習わしになっているらしい。
休みの日には、万里の長城などを観光した。
私の母が北京に住んでいたこともあり、万里の長城の話は昔から聞いていた。
”夢の万里の長城”に行けるので胸が躍った。
良く晴れた日で、たくさんの観光客がいた。
團先生も一緒に行かれたのだが、浅野君と私に、君たちで登って見ていらっしやい、と言われた。
それは後で分かったことだが、大変急な坂道で、私たちは上まで行って息が上がってしまった。
上までといっても目に見える所までなのだが…。
この長城は、中国時代から明代までの間に、辺境防御のために築かれた城壁で、秦の始皇帝
が大修築を加えた全長約二千四百キロもある城壁である。
しかし壮大な城壁とその上からの眺望は、人から開く話の何倍もの感動があった。
長城から降りて團先生と一緒になって定陵(十三人の皇帝の墓)に寄り、頤和園に行った。
北京最大の公園で、一一五三年に築かれて、清代の女帝西太后が君臨した所でもある。
北京には中国に行くたびに寄り、また北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に行くとき往復とも
立ち寄るので、たくさんの公園名所を見物している。
天安門広場ではおのぼりさんよろしく、何回も写真を撮った。
北京で印象に残っているのは、故宮 (清代には紫禁城と呼ばれていた)はもちろんのことで
はあるが、大使館の人に案内して戴いた場所である。
今日は面白い所に行くので、なるべく目立たない服装をして来てくださいといわれ、興味津々であった。
連れて行かれた所は、裏小路の汚い小屋で、一見普通のしもた屋風に見える家の中であった。
何と”浪花節”をやっていたのである。
中国にも浪花節があるのかという私の疑問に、大使館の人は、こう答えてくれた。
「浪花節は元々は中国のもので、江戸末期に日本に入って来たものである」と。
日本の浪花節と少し違う所は、大きな銅鑼(どる)が伴奏に入っていたことである。
浪花節が中国伝来とは初耳だったが、どうも知らないことが多すぎる。
日本の学校も子どもたちにもっと多くの”生きた歴史”を教えたらいい、と思った。
浪花節の小屋を出てから美味い焼肉を食べに行ったり、北京の休日を思いきり楽しんだ。
私は旅行する各国各地で請われれば指導もすることにしている。
北京でも中央音楽院で何人かの指導をした。・・・・・・