「音楽現代」2007年2月号 第19回《楽器について、そして北京》
「子供たちの響き アジア」実行委員会 代表 小林武史
古い楽器は、イタリアのものが良いのは事実である。
クレモナ市にはストラディヴァリのお墓がある。二万人そこそこの町である。
時代も進んで、色々と研究もされて、現代の楽器はイタリア以外でも良い楽器が出ている。
しかしながら、やはり楽器はイタリアということで、クレモナの方がよりポピュラーなのであろう。
私は、東南アジアや中国の湿気のある地域を廻るときは、日本人に作ってもらった丈夫な楽器を使うことにしている。
前号と併せて、楽器のことは大体説明出来たと思うのだが、湿気に弱い楽器を持っている
私は、どういう訳か雨に恵まれ過ぎているようだ。
團伊玖麿先生が、『アサヒグラフ』 に連載なさっていた 「パイプのけむり」 に
私のことを雨男というタイトルで書かれたことがあった。
<名にし負う雨男、ヴァイオリニストの小林武史と旅に出たから堪らない。
雨また雨。七月一日正午、上海紅橋空港の滑走路に飛行機の車輪がことんと着いた瞬間から、
十一日の午後に車輪が香港啓徳空港の滑走路を離れる迄、降りも降ったり、
要するに僕達は雨ばかりの中を歩いていた。>
これが、團先生の書かれた「雨男」という題の始まりの一節である。
後日また面白い話がある。
八丈島で毎年夏に行なわれるコンサートがあり、久し振りに私も出演させて頂くことになった。
團先生が主催されていて、島ぐるみのコンサートである。
そのとき團先生が私との旅の話をなさって、小林君は本当に雨男であると言われた。
不思議なことに、私がステージに出て弾き出した途端に雨が降った。それも大雨である。
演奏が終わってステージから降りたら、雨がやんでしまった。
これは演出でも何でもなく、本当の話である。
その私が、特に雨に弱い楽器を持って歩くのだから、神経が疲れるのも無理からぬことである。
私の演奏会で晴れていた日は数えるほどしかない。その團先生は、幽明境を異にされた。
《北京》
中国へ行くことになった。
これまで四回訪中したが、初めてのときはやはり興奮した。
一九八二年十月から約一カ月間、日中国交十周年記念行事として、国際交流基金
派遣音楽使節で九回の演奏会、そして指導を行なった。
團先生と、ピアノ伴奏には浅野繁君が一緒だった。
團先生の指揮で中国のオーケストラとの共演の時は浅野君は暇で、浅野君と私が
演奏しているときは團先生がお時間がおありのようだった。
私はいつも出ずっ張りで、何回も演奏する栄誉(?)に浴した。
その他、音楽院の生徒の指導もした。コンサートは全部で九回。
オーケストラとの合わせ、ピアノとの練習、生徒の指導、そして名所遺跡の参観などで、一ヶ月間ほとんど休む間はなかった。
最初に北京の空港に降り立ったとき、中国語だけが聞こえて来た。
当たり前のことであるが、外国から帰って来たとき、空港で日本語が聞こえて来ると何となく変な気持ちになるのと似ている。
独特な匂いがした。“中国の匂い”である。
私たちを迎えに大勢の人が出ていた。空港から約三十分、出迎えの車で柳並木の路を走り、燕京飯店に入った。
中国ではホテルのことを「飯店」という。
日本との時差は一時間、約四時間半の飛行時間なので楽な旅だったが、
着いた日に大使館の人たちと豊沢園という所で会食があり、
駐中国日本大使など偉い人たちが多く、疲れてしまった。
翌日、朝の定食には感激。お粥と饅頭、その他中国の漬物など、今までこんなにたくさん朝食を食べたことはない。
朝食後すぐに日本人学校に行き、ピアノと部屋を借りて練習。
何故こんなことを書くかというと、我々演奏家は絶えず練習をしていなければならないのである。
マラソンの選手が毎日走るのと同じである。
私は、何処の国へ行っても体調が悪いことが多く、己れ自身イヤになる。
今はこんなに元気なのに、旅をすると何故おかしくなるのだろうか。神経症なのだろうか。
ところで、国交回復十周年記念行事ということで、中国側の大歓迎を受けたが、感激して疲れてしまった。
このときは指揮者として同行された團先生は、文化革命以前から何十回も訪中
しておられて中国の友人知人も多く、大変良く私たちの面倒を見てくださった。
夜は毎晩のように晩餐会があり、中国でも一流のものばかりをご馳走になった。
ある夜も、駐中国日本大使御夫妻その他地位のある方々と便宜坊焼鴨店で鴨料理を御馳走になった。
この席には中国の文化次官(大臣)なども出席されて大いに盛り上がったのを覚えている。
中国流の乾杯というのもここで勉強させて戴いた。
カンパイのことはカンペイと言い、猪口やコップの器に入っている酒を一気に飲み干す
ことであり、飲んだ後、その飲み干して空になった器を相手方に向けて見せなければならない。
また自分の器に勝手に自分で注いではならない。
絶えず人の器に注いで、また何か理由をいって乾杯する。
その理由は、皆さんと一緒に仕事ができることを祝って、日中友好のために、
家族のために、貴方の健康のために等々、理由は何十通りもあり、そのまま本気でカンペイしていたら
腰が抜けてしまうのである。慣れた人は、そっとどこかに溢したり、おしぼりみたいなものに含ませたりする。
また、どうしても飲めない人は「随意」といって杯を伏せることができるが、酒が嫌いでない我々は、ずっと後に
なってこれらの手法や断わり方を知った。
ともあれ、毎日宴会の連続であったがヴァイオリンの練習もよくしたし、その合間に見学も した。・・・・・・