「音楽現代」2006年7月号 第12回《音楽と旅して》(その7)

「子供たちの響き アジア」実行委員会  代表 小林武史

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)滞在中の日記(承前号)より

 四月十四日
 七時半、朝食。
 朝九時に病院、少し余分に治療する。
 午後二時半、金日成主席から、日本組団長として代表して花瓶と朝鮮人参エキスを戴く。
 後のスケジュールを決める。

四月十五日
この日は、金日成主席の誕生日。
朝、主席の大きな銅像の前に行き、各国の代表が挨拶する。
大変なセレモニーだ (毎年の行事とのこと)。
 午後サーカスを観覧。さすがに凄い。
 帰ってからすぐに祝賀会。
 セレモニーが始まって、ここの政務院副総理チャン・チョル閣下が真っ先に私たちのところ
にご挨拶にお見えになった。
 私が最初に訪朝した一九八五年には文化大臣だった人で、日本語が大変お上手である。
日本の大学を出られているという噂を開いたことがある。私とは特に親しくして戴いている。
 晩餐会では、何ヵ国かの代表が歌を唄ったが、イタリア人と中国人の歌には感激した。
 日本組、少し疲れて来たか、我俵を言う人も出てきた。
ここが社会主義国家であることを忘れているし、特別扱いにされる割には不満が多く、やはり日本人かな?と思う。
 日本へ早く帰国する人もいて、手続きの打ち合わせ。
 出国ビザの申請など北朝鮮当局へ何回も念を押すが、やっていないことが多い。
私は南米や中近東でも経験していることだから、そのつもりで北朝鮮当局に何回も催促する。
また血圧上がるかな。
 深夜、十二時就寝。

四月十六日

七時前に下に下りて、先に帰る日本組を見送る。その後、朝食。
 今日は、金日成主席が出席される日だ。演奏会が終わってから、記念の集合写真を撮る。
各国、競争で主席の近くへと場所取り。
 我々はのんびりしているのか、いつも後ろの方に立たされる。
日本組の係(案内人)が一生懸命なので、場所を早く取らないことが、何となく申し訳ない気もする。

 四月十七日
 朝、さらってから午後、病院に行く。人間の躰は誰でも、右と左が違うとのこと。
 血圧、今日は右が130-90、左が130ー80。ほとんど鍼だけで正常に戻った。
生まれてから初めての経験だ。
 今夜は、日本組は前半の出演。
 ここの音楽家の意見はまちまちで、私が弾く朝鮮の曲に関して、ピアニストは余り唄うなと
言うし、他の音楽家はもっと唄えと言う。
 どういう訳か、最後の練習は陶器屋の二階にピアノがあって、そこでピアノ合わせをやった。

 四月十八日
 平壌の国立病院へ通いながら毎日演奏したのは、私ぐらいのものであろう。
この苦しみ、辛さも、″日朝交流″のためならばこそ、としておこう。
 朝十時から団長会議。九時二十分に集まれと言う。
何でも早く早くと急ぎたてるのが、この国の特徴か。
 午後二時十五分閉会式。夜、お別れ演奏会。
 夜の楽屋で私の同室になった人は、中国人の歌手であった。
歌手は煙草を喫わないものと決めて掛かっていた私を喜ばせたのは、彼がヘビ
ースモーカーだということである。
 二人で喫う煙草のけむりで、部屋の中はもうもうとしていた。
彼は一流のテノール歌手であった。
 終演後、ダンスパーティーがあり、千人もの人たちが交流を深めた。
私は疲れていたので最後の一曲だけを通訳の女性と踊り、あとはポカンと眺めていた。

 四月十九日
 荷作りしたり、打ち合わせをして、昼食は音楽学校の学長から招待された。
前回来たときとは違った学長だったが、たくさん話ができた。
 今後のこと、交流のこと、そして音楽学校には素晴らしい思い出を残し、再会を約束してホテルに帰る。
 夜は焼肉屋に行って騒いだ。

 四月二十日
 帰国の日、朝七時集合。
平壌発九時五分、JS一五一便で北京へ。
今回は北京で一泊することなく、北京発十六時、JAL七八二便で成田へ。

 私の日記帳は大雑把であるが、大体こんな按配であった。

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