第2回『小倉朗がソナチネを作曲 はぐれ河童の独り旅』小林武史
今年の2月で62歳になる私、と前号で書いたのに、実は今まで60歳で、今度61歳になるとのこと、
河童(かっぱ)の話を引用した記事を読んだ友人が、お前は、はぐれ河童だ、という。
群れをなしていないから、独りであっちこち飛び回ってイライラしているうちに、
自分の中で、年を一つ増やしてしまったのかもしれない。
1961年の暮れに、生まれて初めて外国に出ることになった。
日本音楽舞踊批評家クラブ賞というものをもらって、好きな国に行ってよいといわれ、チェコスロバキアを選んだ。
モラビア地方の国立ブルノーフィルハーモニーのコンサートマスターとして赴任した。そこからはぐれ河童の独り旅が始まった。
外国に行くということは、新聞の記事になることもあり、河童当人としてはもちろん大事件であった。
釣り友だちの作曲家、故・小倉朗先生に報告した。鎌倉の海岸で黒ダイを釣るべくさおをだしていただいた時だったと思う。
(彼とは何十回も釣りに行ったが、釣れたことは数えるほどしかなかった。)
日本人のお前が外国に行って、ベートーベンや、メンデルスゾーン弾いたって仕様がないだろう、
おれが一曲作ってやるから持っていけよ、といって、東北地方の民謡を素材にしたソナチネを作曲してくれた。
同胞の一人も居ないモラビア地方、しかも、社会主義や共産主義国には、食いものもなく、自由もないことを知らず、
一匹オオカミならぬ一匹はぐれ河童は、涙を流しながら、日本情緒豊かなこの曲をさらったものである。
人生には岐路というものがあり、河童の道はここで決まってしまった。
一時代前まで、世界的に有名だったバイオリニストの、ヤルカ・シュチェパーネックと知り合った。
なぜ一時代前までかというと、社会主義になる前の大統領マサーリックにもらった手紙を、
彼が人に見せたために、密告されて、半年も牢屋(ろうや)にブチ込まれてしまった。
牢屋から出て来てから、彼は、アル中になってしまった。
しかし、彼は天才である。何とかと紙一重で、レストランで、いきなりブタども何食ってんだ、などとどなったりもした。
ただ日本の河童に対しては異常にやさしく、どん底の生活をしていたにもかかわらず、
レッスンをしても一切謝礼金は受け取らなかった。
もっとも彼のレッスンは厳しく、最低4時間は解放してもらえなかった。
おれの知らない曲をもっているか、というので、小倉のソナチネを見せたら、1分間で暗譜してしまった。
彼のエピソードは1冊の本になるだろう。
一切政治の話をしなかったシュチェパーネックが別離のとき、ハンカチに書いてくれた文句がある。
そのために、はぐれ河童は世界中を歩き回ることになった。
「日本から来た男。君のヴァイオリン音楽の素晴らしいワイン(血の意味)を持って、全民族に信じさせよ。
平和と国際理解の力を、君の一生を通して。オレの魂は君につき添うから」
1日10時間さらえ、といったシュチェパーネックもだいぶ前にこの世からいなくなった。(バイオリニスト)