第1回『思い出す横浜、湘南の音楽院 ~62年間の生きざま振り返る』小林武史 

平成4年2月に62歳になる私にとってショックに近いスピードで来てしまった現点で、
まだまだ、それでもまだまだ、と悔しがっている自分を鏡で見て、
暗やみの中で自分自身の向こう脛(ずね)を蹴とばしてみたり、
ヨーロッパ時代のロマンチックな情景に思いをはせたり、
頭の中で割り切れない難しい数字を心の中で言い訳してみたりしているうちに、
焦燥から己の生きざまを振り返ってみた。
 神奈川県在住の私としては、ここに定住して12年目なのに、子供のころから神奈川県人だったような状態に違和感もなく、
空想の鏡の中で原点からさかのぼってみた。たしか16,7歳のころだったと思うが、
メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲を初めてオーケストラとの協演したのが横浜で、
オーケストラは、現在も活動している横浜交響楽団、当時理事長をしていたのが、
磯子に住んでいた八十島外衛という産婦人科の医者で、わが子同然にかわいがってもらい、
わがままのし放題、甘えついでにバイオリンの弓を買うから言ってお金を借りて飲んでしまったこともあった。
 とにかく動物好きで、河童(かっぱ)の会なるものをつくり、絵画に懲り河童の絵をたくさん描いていた。
河童は大きいのも小さいのもいて、小さいのは何千何万と群れをなし、お互いひしめき合って悪さをするのだという。
もちろん良い河童もいると聞いてひょうきんな河童の絵を見て胸をなでおろしたのを覚えている。
亡くなる間際までセントバーナードがほしいといってダダをこねていた横響のファゴット奏者でもあった。
私は長い間磯子の家に入りびたり迷惑をかけた。
 10年前まで八十島家に出入りしていたが、ご夫妻とも亡くなられて一つの時代が去ってしまった。
相変わらずいろんな河童がうようよ動き回っていて、自分もその中の一匹だと思うと、
またどこかで先生に会えるような気がする。
今は埋め立てでなくなってしまった磯子の海、海水パンツで通りを渡って海で泳いだものだが、
海と磯子は、もう結びつかなくなってしまった。
 後に私は鎌倉に住み、私の思い出の中に出てくるのはやはり海である。
湘南には私の十代からお付き合いいただいている先生方が多く、皆海に関係があり、
私の生れ月が水瓶座ということも大いに理由がある(何しろクウェートでリサイタルをやったとき5年ぶりの雨を降らし、
その後一滴も降らなかった雨を3年目のリサイタルでまた降らせた)。
水とのお付き合いは鎌倉にいた詩人の菊岡久利、作曲家の小倉朗、現在、住所は横須賀だが、
葉山の近く丘の上から大島まで見える海を見て生活している
團伊玖磨の諸先生方、小倉先生は私が生まれて初めて外国に出たときソナチネを作曲して下さった。一昨年亡くなられた。
 菊岡先生もだいぶ前に亡くなられたが、私の十代に詩を書くことを教えて下さった。
團先生は5曲もの大曲を私のために作って下さった。皆海が好きで、
よく釣りに行った。紙面が限られているのでまた機会があったら人生珍道中でも書かせていただきたいと思う。
また鏡を見ながらわが向こう脛を蹴とばしている一匹の小さな青葉台の河童です。そうだ、ここには海も水もないのだ。