「音楽現代」2007年12月号 第29回(最終回)《作曲家と私》(その2)
「子供たちの響き アジア」実行委員会 代表 小林武史
★團伊玖麿先生には、何曲も作曲して戴いた。
ヴァイオリンとピアノ、またはオーケストラのためのファンタジア一番は
一九七三年に作曲され、初演は東京で同年。
二番は一九八三年、同年にチェコのブルノ・フィルと定期演奏会で一、二番合わせて初演した。
三番は一九八五年に作曲され、同年に東京で初演。
ヴァイオリンとピアノのためのソナタは一九九〇年に作られて、同年初演した。
團先生とも昔、スタジオで童謡などの録音で知り合ったが、もう半世紀のお付き合いになる。
先生は私に、「君の家は放浪者の家系かもしれないから調べてごらんよ、実は我が家がそうなんだ。
これは遺伝するものらしいよ」と言われた。
この半世紀の間に私も團先生も、世界中飛び廻って、外国でばったりお会いしたこともある。
團先生のご先祖も外遊なされていた方が多かったようで、
私の所も樺太や北京、スマトラ(今のインドネシア)などに住んで、私はスマトラ生まれなのである。
私も團先生も南方(昔は南洋といった)が好きで、よくご一緒した。
團先生は八丈島にも居を構えておられて、そこは作曲されるときに多く使われている。
私もたびたび遊びに行った。
庭には綜欄の木があって、海の風が心地良く、日本にいることを忘れさせる趣があった。
「タケちゃん、スマトラを想い出すかい」
「覚えてないけれど想い出す」
こんなとんちんかんな問答があって、先生は私のためにファンタジアを書き始めた。
庭には南洋の風が吹いていた。
何曲も作って戴いて、私は世界中、この曲を弾き歩いている。
あるときは先生の指揮で、また他の人の指揮で。
あるときはピアノ伴奏で、中国では無伴奏でやってしまった! が。
どうしても、もう一度、團先生と一緒に放浪の旅に出てみたい。
★夏田鐘甲
夏田鐘甲さんとは、やはり半世紀前頃に、あるクラブで知り合った。
その頃は皆職がなく、オーケストラの給料も安く、今でいう内職が生活費の大部分を占めていた。
私は当時、進駐軍(日本に滞在していた戦勝国アメリカ軍隊) の将校とその家族だけし
か入れない三井クラブという所で、ジャズバンドのヴァイオリンを弾いていた。
その頃、進駐軍のキャンプが沢山あって、ジャズや、ハワイアン、室内楽など、種々多くのバンド
があり、日響 (現在のN響。一九五一年まで日本交響楽団という名称であった) のメンバーも演奏会が終わると、
会場に進駐軍のトラックが何台も迎えに来て、各地区に運ばれて行き、そこにあるキャンプで
ジャズや室内楽を演奏していた。
演奏といっても、食事やパーティーの邪魔にならないように小さな音で弾け、とよく言われた。
ダンス音楽の場合は当然大きな音で演奏出来たが、ラッパやサキソフォンやドラムなどが鳴り出すと、
ヴァイオリンなどはほとんど聴こえなかった。それでもスイングやブルースの曲に弦楽器は必要だったようである。
我々にとって、何よりもありがたかったのは、食事が出ることであった。
家族のある人は、よく飯盒 (戦争中に兵隊が使っていた金属の弁当箱)を持って来て、
余った肉やサンドイッチを持ち帰っていた。
当時は食べ物がなかった。
私の入っていたバンドは、森山久とニューパシフィックという名前で、ヴァイオリン奏者も常時三人か四人いたように思う。
私は若い頃 (十七歳か十八歳) からルンペン?をしていて、私よりだいぶ年上の人たちの間で仕事をしていた。
そのバンドで第二ヴァイオリンを弾いていたのが夏田鐘甲さんであった。
彼の本職は作曲家であったが、彼はヴァイオリンでメシを食っていた。
それを知らない私に、彼は、現在の自分は本当の姿ではなく、自分は作曲家であること、また私にも音楽理論をやるよう
に提言してくれた。そして、私は彼について理論を習うことになったが、酒の好きな二人は、教えるほうも教えられるほうも
余り身が入らず、半世紀もたって現在に至っている。
しかし前にも書いたように、素晴らしい曲を私に書いて下さり、ヨーロッパでもアジアの国々でも演奏して歩いている。
この曲は、バラード (バラーデともいう。日本語では譚詩曲と訳されることもある) という曲で、
一番が祭祀一九七四年作曲。同年タイのバンコックで初演
二番が祈り一九八一年作曲。同年東京で初演
三番が舞一九八一年作曲。やはり同年に東京で初演 となっている。
この三曲はまとめて、一緒に演奏することが多い。
この曲の素材は、十六世紀頃の朝鮮の宮廷音楽である。