第24回目掲載 平成4年11月21日(土) 

『生涯忘れられない武漢市
人情厚く、高い演奏レベル』 小林武史



私が初めて中国に演奏旅行に行ったのが、ちょうど10年前で、
北京など大きな町にも車は少なく、国民服を着た人も大勢いた。
音楽会の聴衆の態度も、余り静かなものではなかった。
しかし、今回の演奏旅行ではヨーロッパ並みの聴衆だったし、
武漢でも多少うるさいかもしれないが、と主催者から予告されていたが、
満席の客席からは善意のため息ぐらいしかステージにいる私のところには伝わってこなかった。
上海では、音楽院の中の音楽堂ということもあり、10年前とは全く別世界の聴衆に接することができた。
上海音楽院の子供たちの技術レベルも驚くべき進歩があったし、
私が10年前に予言した通り、世界の一流演奏家たちの卵が殻を破って並んでいた。
小学校4・5・6年生たちの演奏を聴いたが、
すでに各国のジュニア音楽コンクールで優勝または入賞している子供たちに接して、感動をおさえるのに苦労した。
聴衆にしても、学生にしても、中央、都心と地方では階層が違うのだろうが、それなりに着実に前進していることは間違いない。
湖北省の首都、武漢市は初めて訪れたところであったが、生涯忘れられない土地になりそうである。
中国革命の発祥地であり、人口7百万人、素朴で人情厚く、子供たちの演奏レベルも高い。
上海ほどではないにしても、温かさを感じた。
音楽院生7百人、子供たちの目も輝いていた。
今年72歳になる武漢音楽家協会の主席、謝功成先生にお会いできたことで、私の人生はこれから変わっていくのかもしれない。
口数の少ない謝先生は、すべてを行動で示された。
前に一度だけ日本でお会いしたとき、武漢にいらしてください、といわれた。
儀礼的なものと解釈していたのだが、謝先生は、現実に私を招待してくださり、最大の歓迎をしてくださった。
飛行機に乗れず汽車で行ったりしたので、ピアニストとの練習も夜遅くまで行われた。
謝先生は、夜中の1時までかかった練習状態を最後までホールに座って黙って見ておられた。
また上海に行く日、少ない時間を精いっぱい付き合ってくださり、空港では荷物を持って、ぎりぎりのところまで送ってくださった。
何よりも私が忘れられないのは、再見(さようなら)といったとき、大きな顔に涙が見えたこと。
それは、私が生まれて初めて見る涙であり、
例えていうならば、これから戦地におもむく息子を見送る父親の顔であったような気がする。
私は世界中歩き回り、何回も親しい人との別離も経験しているし、涙を流したこともあるが、謝先生の心は、私につき刺さった。
中国革命の発祥地であれば、日本人に対しても特別な感情が他の中国人より多いと思うし、政治的にも日本とは大分かけ離れている。
人種も違うその中で、私は謝先生の中に、人間としての真実な心を見た。
武漢の子供たちの指導を断るわけにいかず、毎年訪中することになりそうである。(バイオリニスト)



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