第21回目掲載 平成4年10月10日(土) |
『練習不足の不安が表れる 演奏会前に見る悪夢』 小林武史 |
野原を走っている。空は曇ってきて、雨が降ってくる。今度は沼の中をこぐように歩いている。
汚いレストランというか、食堂というのか、人がまばらに座っていたり、
立っていたりしている中を通って、うす暗い部屋に入る。
ない、ない、いくら探してもない。きっと電車の中だ、いや練習所に置いてきたのかもしれない。
もう時間がない。でも探さなければならない。何だか寒気がしてきた。ずぶぬれだ。もうすぐ開演時間だ。
これは演奏会が近づくと必ずといってよいくらい見る夢である。
夜の開演時間が迫っているのに、楽器がなくなってしまって、探しているのである。
しかも、それがどこの国にいるのか分からず、チェコの風景だったり、
インドネシアだったり、沼ではワニが出てきたり、カバが出てきたりする。
人間もチェコの友人が出てきたり、日本人だったり、中国人だったり、
親切な人がいたり、冷たい人がいたり、支離滅裂なのである。
途中で目が覚めたとき、起き上がって、手を合わせて神に感謝する。
ああ夢であった。夢でよかった。翌日から猛勉強を始める。
こういう夢を見るときは、決まって勉強不足のときで、演奏会に不安があるときなのだ。
それにもかかわらず、同じことを繰り返す自分に愛想をつかすことがある。
ティンパニーが鳴っている。これはベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の前奏である。
しかも、私はまだステージに出ていない。
ステージのそばにいて、これから出ようとしているのに、前奏が始まった。
しかも、ベートーヴェンなど用意していない。他の曲をさらってあったのだ。どうしよう、どうしよう。
それでも、ステージに出なくてはならない。
出て行って指揮者のそばに立つ。調子を合わせるのを忘れていた。
大変だ、もうすぐ前奏が終わる。弾かなければならない。
ここで目が覚める。今日から10時間さらってやろうと思う。
朝起きてコーヒーを飲み、さあやるぞ、と思ったとき、電話がかかってきて、
それに関連して、書類を引っ張り出し、何だかんだと午前中が消えてしまい、
夕べはよく眠れなかったからと、昼寝をして、夜になり、少しヴァイオリンを弾き、
明日こそは、と思いながら、また恐ろしい夢を見ることになる。
特に大切な演奏会があったとき、田舎に一ヶ月閉じこもって勉強したことがあった。
その演奏会では芸術祭賞をいただいた。
空を飛んでいる。自分で飛ぼうと思うと、いつでも飛べるのだ。
山越え、野超え、畑の上も低空飛行で飛べるし、屋根の上に降り立つこともできる。
この夢を見た翌日は気分が良いのだが、最近お目にかからない。
だれにも言い訳がきかない演奏会が、また近づいてきた。(バイオリニスト)