第5回目掲載 「音楽現代」12月号  


《賞・音楽家としての発言権》

      「子供たちの響き アジア」実行委員会
                代表 小林武史


一九九六年度文化庁主催の芸術祭に、ヴァイオリンリサイタルで参加して「芸術祭賞大賞」を受賞した。
今から九年前で、六十五歳になっていた。
 一九八八年にも、同じ芸術祭で芸術祭賞を貰っている。そのときにも言われたことだが、
五十何歳にもなってなんで芸術祭に出るのか、と揶揄めいたものが、その語調にはあった。
それでも頑張って芸術祭賞を取った。それから益々年をとり、益々頑張って「大賞」を得た。

 日本では芸術祭に参加するにしても、そのための演奏会を開くには金がかかる。
腕が良くてもタレント性がない演奏家は売れない。マスコミにのらなければ売れない。
従って生活面を考えなければ食ってゆけない。学校の先生になるか、スタジオで歌謡曲の伴奏をするか、
若いうちにオーケストラに入るか、個人で生徒を教えるか。
オーケストラの給料だけでは食っていけないのも現実である。
 オーケストラに席を置いても、定年になって退職金を貰えるようになったのはごく最近のことで
あり、生活は皆、一様に苦しいようだ。
 日本でも、「音楽家のユニオンが出来なければならない」と提唱したのは、実は私である。
それは日本に帰って来てからだから約三十年以上も前のことになる。
最近は各オーケストラに組合ができて、現在のオーケストラシステムも先進国に近づいて来ていると思う。
 リサイタルを一回開催すると約百五十万円ぐらいかかる。会場費だけでも何十万円もするし、
チラシ、招待状、ポスター、チケットなどの印刷代も馬鹿にならない。それにマネジャー料、ピアニ
ストヘの謝礼等々、その他の費用と連絡打ち合わせなど時間の浪費も考えなければならない。

一九九六年の芸術祭参加リサイタルには、ドイツに住んでいるスロヴァキア国籍の
友人のパヴォル・コヴアーチを招いた。
一九九人年には九六年のリサイタルと同じプログラムのリサイタルがドイツであり、
もちろん彼以外のピアニストは考えていなかった。
 彼の旅費から滞在費、謝礼、録音代まで含めると半端な金額ではなく、だいぶ辛い思いをした。
 大賞を貰おうが何をしようが私のコンサートは非常に数が少なく、自分をアピールする場所が日本には無いに等しい。
 自費でリサイタルを開催するしかなく、それには皆に頭を下げてチケットを買って貰うことになる。
しかも大金を用意しなければならない。だから演奏家としての生命を保つためには海外に出て演奏するしかない。
 私は毎年のように海外で演奏している。海外では出演料も貰える。
それは需要と供給の問題もあろうが、そればかりではない。日本人は人の足を
引っ張ることは得意だけれど、育てようとはしない。これは皆が言っていることだ。
″本物″を認めようとしない風潮がある。本物志向が根付かないうちは日本の文化は危ういし、
それは何も音楽に限ったことではない。

 さて、私がどうしても芸術祭賞大賞を欲しかった理由は、音楽家として発言権がほしかったからである。
私が私の意志として私の経験したことのすべてを発表したかったから、肩書きを付けるた
めにも賞が欲しかったのである。

私は戦中派の人間であるが、もの心ついたときから戦争はあった。今でも世界中で殺し合いをしている。
民主主義も社会主義も結構であるが、何かと名目をつけては戦争をし、殺し合っているのが人間である。
 前々号にも書いたが、井上民二教授が言われている、過激な競争をすることは終わりに近づくと
いうことを、どうして人間は考えられないのだろうか。
もっとも、人間がこの地球に生まれてたかだか五百万年といわれている。
一億年もの歴史を持って共生を覚えた動・植物にかなうわけもないが、
この不遜な人間たちはもう少し謙虚になれないものだろうか。

 私の尊敬している作曲家の伊福部昭先生に、人類のことを伺ってみた。
百五十万年前に、ジャワ原人、北京原人というのが現れて、なおアフリカに残っていた人種が
二十万年前に第二回目のヨーロッパ進出をした。これはアフリカのイヴ仮説に
基づくものだが、大きく分けてネグロイド、モンゴロイド、コーカソイド、オーストラロイドと人間の種類があり、
二百万年前まで、人間は植物だけを食し、十万年ぐらい前から貝類を食べることを覚え、
それ以前は他の動物の食い残しを、現在のハイエナみたいにあさって食べていたとのこと。

 伊福部先生の博学には驚くばかりである。いずれ触れるが、ヴアイオリンの弓のことについて
もご教示戴いた。
 私がお世話になった先生方については追い追い述べるとして、すべての先生方が言われているこ
とに共通性があることに気が付いた。
 あらゆる宗教が殺すことを禁じているのに、なぜ人間は無駄な悲しい殺し合いをしなければなら
ないのであろうか、ということである。
 このことを含めて、シュチェパーネック先生の遺言である「平和と国際理解」 のために、わたしの旅は始まった・・・・・・。




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