第21回目掲載 「音楽現代」4月号  


《北京(その3)》

      「子供たちの響き アジア」実行委員会
                代表 小林武史

 中国のサーカスは見逃せないものがある。
私の年代だと、サーカスというのは人攫いに攫われた子どもが
サーカスに売られて芸を仕込まれる、と考えた人が多かったように思う。
 現代はまったく違って、サーカスは“芸術”という人もいるくらいである。
中国では、サーカスの子どもたちも誇りを持って、笑顔で素晴らしい技を披露してくれる。
 中国に行ったら判子(印鑑)を作ったほうがよい、と團伊玖磨先生に言われて、
「小林武史蔵書」という文字を石に刻んだ素敵な判子を作ってもらった。
それからすっかり石の判子に取りつかれて、中国に行くたびに印石を買って来るようになった。
この印石の値段も中国へ行くたびに上がっていて、驚いている。
 中央音楽院の先生に、戦争をしないで、音楽を通して仲良くしましょう、と言われたが、
昨日も同じことを言われた、と日記に書いてある。

《閑話休題》

 この原稿を書いていて、少し疲れたのでTVをつけた。
私の最も尊敬するユーディ・メニューイン(今世紀最大のヴァイオリニスト)が話をされていた。
 すべての樹木は違った形をしているし、草花も違っている。そして個性を持っている。
現在、世界中でスピーカーをつけたような音楽が流行っている。
個性がなくなってきていることは怖いことである。
あらゆる生物は、個性を持ちながら共生すべきである。
私はユダヤ人であるが、アラブとは対話が必要であり、権力や暴力で抑えつけるのはもっての外である。
人間は人間を認めなければならない、と強く言われていた。
 クラシックの演奏家においても個性がなくなってきている、個性は大事にしなければならない、と強調され、
彼はイスラエルに行っても何処へ行っても、この問題を取り上げ、強く主張しておられた。
 私の考えもまったく同じで、何故、どうして、ということを大人は考えなければならず、子どもに教えなければならない。

 マスコミの一方的な宣伝が人の心を染めてしまう。ある宣教師が言っていた。
同じことを一万回繰り返し唱えることによって理解させることが出来る、と。
 新聞や雑誌、ラジオやテレビが、同じことを繰り返し述べていると、人間はそのことを信じ
込んでしまうことが多く、まして自己主張を持たない人間にはその浸透は早い。
 あらゆることに興味を持ち、研究心というほど大袈裟なものでなくとも、どうしてだろう、
何故だろうと考える気があれば、”破滅”という結果をみることも少なくなるだろう。
 メニューインが言われるように、森や林もその側に行って見れば、それぞれ個性を持ち違う
形をしている樹木の集団である。まして人間であれば、個性や自意識を強く持つ必要がある。
宣伝に惑わされてはならない。
どうしてか、何故か、と常に問いかけ考えなくてはいけない。
音楽においても曲や音符の解釈を絶えず考えながら練習することで進歩するのだ。
 バッハの無伴奏ソナタ第1番を弾いた一人の大家のレコードを聴いた。
それぞれの大家が、自分の演奏は絶対的なものとしてレコードに入れている。
然しそれぞれの解釈に余りにも大きな違いが感じられ唖然としてしまった。
世界的な人でも解釈の違いはあるものだ。
然しあくまでもバッハはバッハなのであり、ベートーヴェンでもモーツァルトでもないのだから不思議であり、愉快だと思う。
 人間は人間であり続けるためには、国や主義や思想の違いを認め合わなければならない。
自分の宗教やイデオロギーが違うからといって、戦争(殺し合い)をやっていたのでは、”戦争屋”
を儲けさせるだけであり、その結果、命を奪われた人たちの家族や親族が身悶えし泣きじゃくることになる。
そこからまた憎しみの種が生まれ、戦争という愚かなイタチゴッコに際限がなくなってしまう。

 二回目の訪中のとき、ある先輩から出発前に、皆が言われたことがあった。
それは、「いろいろな国があって、そこの国の人たちが美味しいと思うものを人に薦めてくれるので、
それを気持ち悪いとか何とかいっては駄目です。
自分が嫌だったら、黙って食べなければよいので、人の前では決して嫌な顔をしないように」とのことであった。
大きな蝸牛や沙蚕 (魚を釣るときの餌)の煮凝ごり、そして穿山甲の肉も出たし大蛙のから揚げも出た。
私は何が出ても珍しく、喜んで戴く。知ること、経験することは大切だから。
 中国では蛇は贅沢な食べものであるし、私は蛇も大好物である。
私は世界中、何処へ行っても、その土地で出されるものを拒絶したことは一度もない。
 帰りにまた上海に寄ったとき、演奏会場で旧知の台湾の作曲家に会った。
彼の作品を上海交響楽団が演奏した。台湾と中国の接近がここに見らちれた。
二十年前、この作曲家は、中国本土のことを「中共」と言って忌み嫌っていた。
 当時、蓮見義博さんという人が上海総領事であった。
彼とは不思議な縁で、最初にお会いしたのが一九七二年の東南アジア演奏旅行で香港
に寄った時、総領事館におられてお世話になった。
そして、次は一九八五年に北京大使館でお世話になり今回、上海総領事の蓮見さんにお目に掛かった。
また台湾を紹介して下さり、国際交流協会の派遣で二度も訪台することになった。
その後、モンゴルの大使になられたがお目にかかれず、芸術祭賞大賞受賞記念の私のパーティーには来て下さった。
人間は同じ人に何回も会うことがあるが、蓮見さんとは不思議と国内でお目に掛かる機会は少なかった・・・・・・。





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