第15回目掲載 「音楽現代」10月号  


《韓国訪問》(その2)

      「子供たちの響き アジア」実行委員会
                代表 小林武史

 外国に行ったとき、空港に降り立つと、その国の匂いがする。
また町によっても違う匂いがするものである。
 日本に来る外国人に聞いたら、日本にも日本の匂いがあるという。
どうも“味噌汁の匂い”がするようである。
 韓国はやはりニンニクの匂いがするが、一日もすると感じなくなる。
 大邸に着いて、またすぐ冷麺と焼肉を食べに行った。酒の席でも「交流」の話をする。
 オーケストラとの練習もうまくいって、本番も成功したが、とにかく雨で湿気があり、楽器
が壊れてしまった。外の湿気が入らないように、控室の窓を閉めるのだが、係の人が入って来て
は窓を開けてしまう。楽器のために悪いからといくら言っても理解してくれない。
当時は、冷房がないのでどうしようもない。
 このときは日本からも知り合いの方が聴きに来られたりして、楽しい演奏会になった。
帰国までにオーケストラのメンバーや他の何人かを指導した。
皆が親切で、翌日は釜山まで車で送って戴いた。
 韓国からの帰りに、九州で教える仕事があったので福岡まで飛ぶことにした。
 税関で手続きを済ませ何だかんだと時間を取られて、飛行機に乗ったら三十分で着いてしまった。
 韓国で買ったり貰ったりしたおみやげがトランクいっぱいになっていたが、知り合いが多い
九州であちらこちらを廻っている間に無くなってしまった。
 三回目は、林元植先生が関係している芸術高等学校での演奏会で、やはり夏田鐘甲のバラード他。
林先生がタクトを握った。
 この学校の生徒は女性が多く皆、頭の良さそうな顔をしていた。
音楽を主としてやりながらも、学科が猛烈に忙しいのだといっていた。
 校内演奏会だったが、その間に林元植先生を日本に招く話や北朝鮮との合同演奏会のことなど、大分進んだ。
 明洞町という所に行き、初めて参鶏湯というものを食べた。
店の看板には、「百済参鶏湯元祖」と書いてあった。本場平壌冷麺という看板を思い出した。
 参鶏湯(サムゲタン)とは、鶏をまるごとスープで煮こんだもので、鶏の腹の中に朝鮮人参やナツメ、薬草、
にんにく、餅米などが入っている韓国の代表的な食べものの一つである。
黒い鶏が入っているほうが値段が高かった。
 韓国の食文化も素晴らしい。私の日記を見ても、食った話ばかり書いてある。
 民族村に行ったが、雨で道がドロドロしていた。日本では、土の道がめっきり少なくなり寂しい気もする。
 帰りにはまた全州料理ビビンバ。熱いのをユッケと一緒にかきまぜて食したことが思い出される。

一九九四年四月六日、待望の日韓合同演奏会が催された。
その間、北朝鮮、韓国、日本の関係各位の協力があったことはいうまでもない。
 もっとも、北朝鮮から直接日本に来て韓国の指揮者と共演することには難があったので、
北朝鮮国籍でハンガリーに留学し、ハンガリーのコンクールで優勝、現在ハンガリー国立リスト音楽院の講師を
務めている雀仁洙さんを、在日日本朝鮮文学芸術家同盟にお願いして来て戴いた。
指揮は林元植先生が引き受けて下さった。
 林先生は、初代のソウル市オーケストラの常任指揮者で、韓国で上演されたオペラもほとんど指揮されている。
 これまでアメリカ、ロシア、ヨーロッパなどで指揮活動をする一方、度々来日し、N響、東響、大フィル、東フィル、
都響など主要オーケストラを指揮し、韓国芸術院会員で、韓国音楽界のリーダーといわれている人物である。
夏田さんの作品も、海外で多く指揮をされていると言われていた。
 この演奏会は、私たちのオーケストラである「才能教育東京弦楽合奏団」の創立二十周年記念
演奏会として取り上げられることになり、定期演奏会としては第十六回目になった。

 ここで、このオーケストラの歴史と私の関係を説明しておく必要がある。
 私は十歳のときにヴァイオリンをやらされた。始めたなどというものではない。
無理矢理楽器を持たされて扱かれた。そのときに就いた師が鈴木鎮一という先生。
家が貧乏だったので、私の場合(というのは弟も習っていたので)は月謝を免除していただいた。
丸二年間習った頃、戦争になり、父親は報道班員として戦地に赴き、
私たちも疎開をして、ヴァイオリンどころではなくなっていたが、敗戦後再びヴァイオリンを始めることになった。
 その後いろいろあって、ヨーロッパから帰って来たときに私は三七歳になっていた。
 読売日本交響楽団を辞めて、海外旅行を始めたのが一九七二年で、一九七三年に、鈴木先生からお声が掛かり、
才能教育研究会なるものを手伝ってほしいと要望された。
 才能教育研究会とは、子どもの能力を育てるために音楽で教育する機関であり、現在一般的
に広まっているヴァイオリン教室とはその意を異にするものである。
外国では、「スズキメソッド」と呼ばれて、この方法は今や世界的に有名になっている。
 この組織の中で、何をお手伝いしたらよいかを考えた結果、才能教育東京弦楽合奏団という
ものが出来上がり、私が音楽監督兼常任指揮者として発足したのである。
 一九九六年に、韓国の京城で日韓合同演奏会が行われ、これが最後になってしまったが、二十年以上続いた。
その後、才能教育東京弦楽合奏団は解散同様になってしまった。
 私の尊敬する鈴木鎮一先生は、一九九六年一月二十六日に他界された。九十九歳であった。
同時に、私と才能教育研究会の縁も無くなった。



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