第14回目掲載 「音楽現代」9月号  


《韓国訪問》(その1)

      「子供たちの響き アジア」実行委員会
                代表 小林武史

 1995年はいつもの年以上に忙しく、国内の演奏会を熟し、フランスとオランダでリサイタル。
そして十一月にはブラジルに飛び一ヶ月半滞在して、演奏会と指導を行った。
いつものことながら、あっという間に一年が過ぎてしまう。
 当時の私の仕事は、宮城県の中新田町 (当時)にあるバッハホール音楽院での指導と、
栃木県大田原市の那須野が原ハーモニーホール所属のオーケストラ養成講座のトレーニングなど。
そして、才能教育東京弦楽合奏団の指揮者を務め、ヴァイオリンの個人レッスンも行っていた。
個人レッスンは毎週行うもので、私が旅行しているときは生徒に迷惑が掛かることになるが勘弁してもらっている。
その他にも会議や会合があり、時間がいくらあっても足りない。
 私の職業はヴァイオリンの勉強をすることであり、これは必ず毎日しなければならないのが原則である。
リサイタルが近づくと、毎日五時間以上は勉強することになる。

 私は海外演奏旅行のときだけ日記を付けているが、たまに疲れてやめてしまうことがある。
それでも何十冊かの日記帳が残っていることは、あちこち歩き廻っていることになるのだろう。
 いろいろな国を廻ってみて、食べ物にも興味を持った。
日常食しているものが、その国の人たちの性格にも関係があるように思えてきた。

 ところで、私が初めて韓国(大韓民国) に行ったのは一九七六年。
知人に頼まれて、京城に行った。チャリティコンサートであった。
会場は京城市にある梨花女子高等学校のホール。大変立派で音響効果も良く、
収容人数二千人のところに補助椅子を出すほどの満員・大盛況であった。
新亜日報という新聞社の主催で開かれた。
 日本から三人で出演したのだが、当時は日本人だけの出演は珍しかったそうである。
 まだ日本に対しての感情が余り良くなく、”戒厳令”も敷かれていた。
夜の十二時以降の外出は禁じられており、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に対する
警戒と共産主義に対する反発、そして韓国政府に対する”陰口”にも敏感であった。
 今となっては信じられないような話だが、社会主義国家のものは演奏できなかった。
それも昔の作曲家、ロシアのチャイコフスキーやチェコのドヴォルザークのものまで、
駄目とは言わないが、好ましくないとのことであった。
 時間の流れというものは早くて、韓国も現在はすっかり国際的になり、世界各国との交流も
深めて、大きな国際コンクールも行われるようになっている。戒厳令は、もちろん無い。
 ところで、我々三人とは、ピアノの浅野繁君とチェロの木越洋君で、私が最年長だった。
 本当に時の経つのは早くて、浅野君は結婚して子どもをつくり、現在は宮城県の大学教授に
なっているし、木越君も結婚してやはり子どもがいて、NHK交響楽団の主席チェリストを務めている。
 このとき演奏したプログラムの中に、夏田鐘甲さんの曲があった。
この曲は、前に私のために書いて戴いた「ヴァイオリンとピアノのためのバラード」 で、ピアノ・トリオ用にアレンジ
してくださったものを演奏した。夏田さんは韓国から日本に帰化された方で、私との付き合いは既に半世紀にも及ぶ。
 なお、この曲は、朝鮮の古い宮廷音楽を現代風にアレンジしたもので、私はヨーロッパでも度々演奏している。
芸術祭参加リサイタルでも弾かせて戴いた。
 そして一九九七年の夏、私の主宰しているコレギウム・ムジクム東京というアンサンブルとの共演で、
この曲をCDにするために録音した。メンバーとして木越君にも手伝ってもらった。
 韓国旅行は初めてでもあり、見るもの間くもの皆珍しく、特に国立大学の立派なこと。
中にある音楽部にはたくさんの資料、そして民族の古楽器などが数多く揃っていて、
レコード室から練習室と万全の設備が調っていた。
 食べ物も、日本で食べている韓国料理とはまた違った種類もあり、酒も大変うまくて堪能した。

 私は、これまで韓国には四回、行っている。
 二度目は一九八四年。大邸市での演奏会で、夏田鐘甲のバラードとモーツァルトの協奏曲を弾くために。
もちろん子どもたちへの指導も含まれていた。七月なので暑かった。

 私が韓国に行くのは二つの目的のためである。
一つは日本で主催する「子供たちの響き アジア」の下地を作ることのためで、
まず日本のオーケストラに韓国の指揮者、独奏者には北朝鮮の演奏家を招待して、
友好を深める大きなコンサートをやること。そのための話し合いをしなければならないから。
二つめは、私が面倒を見ている東京弦楽合奏団を連れて、京城で演奏会をやることであった。

 日・朝・韓合同演奏会の話は、北朝鮮は国交のない近くて遠い隣国だけに困難を伴うこと必定である。
交渉事には一つひとつのハードルを越えなければならない。
先ず韓国の有名な指揮者にアタックする必要があった。
幸いにも夏田鐘甲さんの親友で、私も多少存じ上げている林元植という偉い先生と接触することができた。
 このときの訪韓で、林先生も大邸へ同行されることになった。
 林先生が空港まで迎えに出て下さり、京城に着いて、まずは韓国料理。
冷麺と焼肉を食べた。夜は牛のエール(尻尾)のスープ。
日本でも食しているものだが、やはり味が違った記憶がある。
 翌日、セマウル(新しい村という意味)の電車に乗って大邸へ向かったが、
せっかくの景色も雨のため眺望は半減した。
大邸の町はソウルと違い、古典的な匂いがした。・・・・・・



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