第11回目掲載 「音楽現代」6月号  


《音楽と旅して》(その6)

      「子供たちの響き アジア」実行委員会
                代表 小林武史

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)滞在中の日記(承前号) より

四月六日
朝五時半に目が覚める。
下に下りたら、学生の通訳から、上級の女性の通訳に替わっていた。上手な日本語だ。
 普通、通訳は同じホテルに泊まっているが、この女性の通訳は自宅から通っているそうだ。
 今回は日本組の他に、日本から新聞社の人たちも来るとのこと。
 日本組、遅れて夜八時過ぎに到着。
 翌日、日本組に歌わせたり弾かせたりしてから、誰が出演するかをこの国の委員会で決める
と言われ、全員で猛反対する。結局止めさせた。
腰が痛い。薬を飲まないと、腕まで痛くなる。

四月七日
朝九時四十分、団長会議があると言われて、ロビーに下りる。
 日本組は練習に出掛ける。分散して行くので、私の車も出してやる。
なかなか帰って来ないので、一人でぽつんと待っていた。
午後、各国の団長だけステージに乗り、挨拶。 歌や踊りを観覧。夜はレセプション。
 大いに飲んで、騒ぐ。

四月八日
午前中、中央労働会館でリハーサル。
昼寝したいけれど、神経がピリピリしていて眠れない。腰が痛くて、腹が立って脂汗も出る。
 それでも夜、本番。まあまあの演奏。これから日本組は分散して、毎日演奏会がある。
”三足のワラジ”を履く団長としては、責任重大である。

四月九日
今日は夜だけのコンサートと言っていたのに、急に朝九時に出発とのこと。
色々な所を見学するためである。私は前にも見ているので、休ませてもらう。
 日本は第七組。同じ七組に、タシケントから来ている子どもが、私が弾くことになっている
朝鮮の曲をさらっていた。同じ曲が重ならないように相談して、違う曲を弾くことにする。

今日の新開に私の写真が出ていた。
我々のピアノトリオも紹介してあった。背中が痛い。

四月十日
タベ眠れず、若しかった。
とにかく背中、腰、腹とあちこち痛くてたまらない。
薬を飲んで寝たのに、そして眠いのに、痛くて眠れない。
 朝九時に出発して、病院に行く。
血圧、190-110。今まで130-80だったので驚いた。
鍼を打ってもらい、薬を貰った。帰って、正味一時間半眠った。
少しさらって、午後四時五十分出発。全員、良い演奏。
 日本組は全部で七人。TVも来ていた。

四月十一日
頭が痛くて、朝五時に目が覚める。
九時に病院。日本組は資料館などを見学。今日は長く治療する。
頭痛のツボを、鍼と真空吸い出し。
 ホテルに帰り、とにかく横になる。目覚ましも聞こえないくらいぐっすり眠って、
午後四時半に目が覚める。支度して劇場へ。
 自分では少し硬くなったかな、と思ったが、皆は今日の演奏は前より良かったと言ってくれた。
鉢が少し、元に戻ったのかも知れない。
 今日で七組の公演が終わり、明日から合同公演が始まる。
明日何をやるのか、連絡待ち。夜中の十二時まで待って連絡ナシ。団長の責任、重し。
朝食八時半の約束をして、就寝。

四月十二日
八時半の朝食後、団長会議があると言われたが、私は病院に行かなければならず、
仲間に代理を頼んで失礼する。
今日の血圧、150-90。だいぶ下がった。
 報告によると、出演者はまちまちで、また前の日に決まるようだ。演奏プログラムは、何曲
ずつか用意をしてあるので、前の日の夜、言われても、用意と練習をしなければならず、困る。

四月十三日
朝七時半に食堂。
九時に病院へ出発。血圧、150-95。昨日より少し悪い。
 昨日、一人に付き百ウォンずつ貰ったが、これは赤い印が付いている札で、外国人用の札に
は青い印がついている。ということは、外国人専用の店では使えない。
 町で買い物をすることになり、病院の帰り(私専用の車なので何処へでも案内人か通訳と一
緒に行ける)に少し写真を撮ったり、町のスーパーで蜂蜜を買ったりした。
記念に貰ったものやキムチ鍋、蜂蜜の入った瓶などは、自分では日本まで持って帰れないので、
日本から来ている在日朝鮮人のグループ・金剛山舞踊団の荷物として運んで貰うように頼んだ。
 ここの外国人専用の店では何でも買える。
国交がなく、私たち旅行者は中国でヴィザを貰わなければならないのに、日本の商品が沢山ある。
西側ヨーロッパの品物もある。煙草はダンヒルやセブンスターなど。
酒頼も、サントリーからオールドパー等々。日本の電機製品も種々あり、
肉から果物まで何でもある。不思議な国だ。
 部屋のTVをつけると、私たちがやった公演が映し出されていた。
町を歩いていても、地下鉄の駅でも、芸術祭のプログラムが至る所にある。
ラジオをつけても、演奏会の音楽が放送されている。・・・・・



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